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2012年11月 7日 (水)

文字の顔

ジムに行けないぶん読書で過ごしてきたが。

本の側から読者を読んでみた。最近は学生時代に愛読した本を再読しているので、つまらないところは飛ばすし、斜め読みする。本は、おいおい、ここがいいところなのに、なんてことをするんだ、というような顔をしている。これは読者が二度寝していて夢を見ていた幻想である。文字に表情はない、ないが、訴えるのである。
アメリカ大統領選挙にはテレビ討論(Dibate)がある。
古代ギリシャやローマ帝国時代から政治家たちは言葉で訴えてきた。その伝統であろう。候補者の話しぶり、表情、態度、仕草までが映像になって全米に流される。ショーというのは「見せる」ということだ。候補者はそのことをよく理解していて、映画での大統領役の俳優より「役者」である。
文字は見世物ではない。
しかし、書き手は読者を意識して文字を選ぶ。飛ばして読ませない、斜め読みさせないぞ、と書き込む。が、読者はどう読もうが自由だ。
大統領候補のDibateは観衆(読み手)は目の前で生の候補者である人間を見ながら、彼らの叡智と全人格を賭けた問答から選択するのである。
一旦印刷され本になった文字は書き換えができない。書き手から離れ独り歩きをするのである。だから、書き手は本心を文字にしない。本心は文字と文字の間、文脈の隙間にこっそりと隠すのだ。読者がそれを見つけた時は金脈に当たったような気持ちになれるのである。
長年、金脈堀りをしてきたつもりだが、同じページにはやっぱり同じ文字が書かれてあり、訴えることも不変である。音楽にしてもCDやレコードで聞くよりライブがいい。同じ曲でも違う曲に感じたりする。
寝る前はYouTubeで落語を見る。聞くだけでなく落語家の仕草もおもしろいからだ。志ん朝だった談志だったか、おいらの落語が受けなかったのは客が悪いんだ、で済んじゃう、と言っている。それは、聞き手の知性感性などの自覚に期待していることへの裏返しである。
文字もかくあるべきで綴らないと一行書いては腕組みをして首を傾げるばかりだ。ラスト小説の表情は渋い顔をしたまま、おいらを睨んでいる。困ったもんだ。

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