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2012年10月31日 (水)

old friend

大学時代の友人でいまも交流があるのは二人だけだ。

そのうちの一人がシナリオ作家の大沢だ。過日、大沢と電話した時に彼の母の死を知らされた。91歳だった。
40年前、彼の家に短期居候させてもらったことがある。
大学を卒業するためには体育の単位が必要だった。当時の大学はそのような学生のために集中講座を開いていた。おいらはアイススケートを受講。授業は朝6時から8時まで、だったか。アイスホッケー部の朝練習が池袋スケートリンクで行われていた。集中講座生はリンク中央で行われている練習を見ながら手すり伝いにリンクを回るだけだ。もちろん滑り方を教わることもなく2時間回遊魚のように滑るのである。
おいらは車検切れ寸前のトヨタ・コロナに住んでいた。
これで夜中スケートリンク前の行き、車内で寝て朝に備えていたのである。しかし、卒業前の冬である。東京は寒い。
そこで、大沢の母が見かねて居候をさせてくれたのである。
大沢はすでに大学を中退しており、時々レコード倉庫で働き、フランク・ザッパのLPをくすねてきては、お裾分けしてもらった。そのLPはいまも持っている。
大沢の母は江戸っ子で、中退も卒業も差別しなかった。林家三平のように身体だけは大事にしなさいというだけである。短期居候先は新宿の都営住宅で文学部裏にあった。
大沢と電話で話している。
「住宅を明け渡さないといけないんだ。それで整理が大変でな」
家族にとってはいろんな思い出が詰まった住宅だし、いろんな物もあるだろう。しかし、捨てる勇気を奮い立たせないと片づけは出来ない。
「そうだな、次はおれたちだもんな」
当時、大沢の母は51歳である。いまのおれたちはその当時の母より随分と年上になった。
大沢とは映研とアナーキズム研究会を共にした。彼の初めての16mm映画は「彼女のお気に入り」で、おいらの作品は「ばいばいあげいん」である。
これで読売TVの11PMに出たことがある。生まれて初めてのテレビ出演である。司会者だった藤本義一さんから「映画監督」と言われた時はあがってしまった。
その藤本さんが死去したとのニュースが流れている。79歳だった。
おいらもいつお迎えがきてもいいように準備は万端にしているのだが、遺言がころころ変わる。なにしろ37度の熱が出る度に書き換えているのだから、風邪の季節になると、その回数は増えるばかりだ。おいらの書きかけの小説のようであります。
ともあれ、友の母と儀一さんの冥福を祈ります。


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